僕はキリスト教の家に生まれて、小さな頃から神様の存在が近くにあった。
当たり前のように教会の日曜学校に行き、讃美歌を歌ったり、御言葉を覚えたりしていた。
思春期になると周囲とのギャップに耐えられなくなり、教会から足は遠ざかった。
気がつくと神を信じず、見たものしか信じない大人になっていた。
あれから20年近く経ち、もう一度神様との出会い直しがあった。
それは友人に連れられて行った神社やお寺。
最初はなんとなく気持ちが良くて、建築に興味が湧いた。
こんな山の中に昔の人はどうやって神社を建てたのだろうか?!
初詣も殆ど行ったことがなかったので30歳近くになって、童心にかえったように惹きつけられた。
それからご縁があって、神社やお寺に頻繁に足を運ぶようになった。
毎回の参拝が冒険のようで楽しかった(笑)
ただキリスト教で育った僕としては、神社やお寺に行くことに少し引け目があった。
なんとなく。
親とぶつかることもあった。
気持ちをぶつけ合って、少しはお互いの人生を認め合えるようになった気がしている。
今年に入りご縁あって、小さな頃に通っていた教会の先生と再会した。
そして、今年の年末にキリスト教との出会い直しがあった。
教会は神社仏閣とはまた違う空気だと、改めて実感した。
海外に行ったとき、やっぱり日本はご飯うまくて良いよね!みたいな感じ。
今年に入って色んな神様のことを知ったけど、やっぱりここがルーツなんだなと感じた。
今年は様々な宗教に興味が湧いて、聞いたり、観たり、行ったりした。
それぞれ、人の道を示してくれる素敵なものだった。
それぞれの世界観の違いに心惹かれた。
主の祈り
大祓詞
般若心経
御真言
カタカムナ
ヨガ瞑想
など、
覚えたりできるようになった事が増えた。
そうやって、神聖世界に入って行くと色んな疑問が生まれる。
それを自分なりに紐解いていくのが、楽しかったり、時に大変だったり、気が付いたら熱中している。
人智を超えた世界があって、考えるだけムダなこともたくさんある。
ただ、宗教は時代によって変わって来た。
政治的な理由で書き換えられたものもある。
それが分かった今、何を信じるのか?が大事だと思っている。
僕のルーツであるキリスト教は一神教で、キリスト教の神様以外を信仰してはいけない。
これは、昔争いが絶えなかった時代に、ただ一つの神を信じたものは救われるという、その時代に必要なキリスト教のカタチがあったのだと思っている。
これも神様のお導きとして。
神道や仏教にはたくさんの神様がいる。
僕は全ての神様が好きだ。
それぞれの愛のカタチがあって。
僕にとって神様は愛の象徴で、
きっと全ての神様は
人や地球や、この宇宙が平和に包まれることを願っている。
そう考えたとき、
今ある宗教を越えていく必要があると感じた。
これは正しい、正しくない
という疑いの価値観では、
平和な世界はやって来ない。
対立からは対立しか生まれない。
神様は人を愛と平和に導く存在。
今、この現世で必要なカタチは何か?
神様はどんなメッセージを送ってくれているだろうか?
そう考えると一人ひとりのなかに答えがあって当然だと思うのです。^ ^
こうやって、
来年もまた僕の探求は続きそうです。
来年の今頃
僕自身もどんな風に変わっているのか
楽しみです(笑)
皆さん、今年1年ありがとうございました✨
来年も皆さんにとって良い1年でありますように(神様の祝福がありますように)🙏⛪️⛩